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灯火法語 「最後だと」 R8 9月

最後だと 気づきもせずにいくつもの
最後をきっと 通過している
『朝日歌壇2018年』

●「最後」だと気づかぬまま、私たちはすでに、いくつもの瞬間を通り過ぎているのでしょう。明日も当たり前のように続くと思っているこの日常には、いったいどれほどの「最後」が潜んでいるのでしょうか。
 始まりがあるものには、必ず終わりがやってきます。朝が来ればやがて夜が訪れるように、変わらないように見える毎日も、実は「始まり」と「終わり」の繰り返しなのです。

 作者不詳のまま世界中で愛されている『The Last Time(おしまいのとき)』という詩には、『子育て』という日常の中に潜む、切ない「最後」が綴られています。

 一人でいた頃には思いもしなかったほど、
 自分の時間と自由が奪われていく子育ての日々。
 毎日同じことの繰り返しで、終わりの見えない毎日に
 ふと ため息をつきたくなることもあるでしょう。
 でも忘れないで。
 そのすべてのことには、必ず「おしまい」があることを。

 遊び疲れた一日の終わりに、あなたの胸に抱かれてすーっと寝息をたてること。
 そんな愛おしい寝かしつけも、それでおしまいかもしれません。
 
 お風呂で「目をつぶっててね」と髪を洗ってあげる夜。
 次の日からは「もう自分でできるから」と、一人で入りたがるかもしれません。
 
 道路を渡るたびに、迷わずあなたの指をぎゅっと握ってくるその手も、それでおしまいかもしれません。
 「お父さん!」「お母さん!」と、両手をいっぱいに広げて駆け寄ってくるあの姿も、それで最後かもしれません。
 無数に訪れる「もうおしまい」。それなのに、私たちは その瞬間に気づきません。

 しばらく経ってから、
 「あの日が最後だったのか」とようやく気づくのです。
 あんなに手がかかった日常が過去のものとなり、
 ふと静けさに包まれたとき。
 「あの日々よ、どうかもう一度だけ」と
 願う日が必ずやってきます。
           (『The Last Time』より意訳)

それでも私たちはいつも「明日も同じ日が続く」と思い込み、それが最後だと知らぬままに、かけがえのない時間を
通過しているものです。

無量寿「計り知れない 無限のいのち」

●仏教では、ありとあらゆるものが移り変わり、少しもとどまることがないという真理を「無常(むじょう)」と教えます。文字通り「常(つね)ならず」。永遠に続くものは何一つなく、すべてのものはいつか必ず消えゆくという、それが私たちの人生のありのままの姿なのです。
無常と聞くと、すべてがはかなく失われていく「むなしいもの」のように響くかもしれません。 しかし、決してそれだけではありません。どん底のように思える苦しみや悲しみの中にいる時も、何ものも静止することはないため、その状況はやがて必ず変わりゆくという「希望」でもあるのです。
 私たちのいのちもまた、この無常の中をひとときも留まることなく流れる「川」のようなものです。昨日から今日へ、今日から明日へ。喜びも悲しみも抱えながら、無数の「最後」という景色を岸辺に置き去りにして、私たちは二度と戻らない時の流れの中を生きています。

 では、このいのちの川は、ただ空しく流れ去って終わるのでしょうか。

 阿弥陀さまは、私たちのいのちが行き場を失って消えゆくことのないように、「お浄土」という帰るべきさとりの海をご用意くださいました。すべての川がやがて一つの海へと還るように、私たちのいのちもまた、阿弥陀さまが開
いてくださった確かな世界へと還っていくのです。

 そこは、時間や迷いの枠組みを超えた「無量寿(むりょうじゅ=無限のいのち)」の世界です。阿弥陀如来の願いは、この無常の川を流れるあらゆるいのちを、広大な海のように根底から支え、決して見捨てることのない「無量のいのちの親」となること。今ここにはたらきかけ、私たちの確かな帰る場所となってくださっているのです。
 やがて自分自身のいのちの「終わり」を迎える私たち。しかし、行き着く先がその無限のいのちの世界であり、阿弥陀さまが力強く支えてくださっていると知る時、このうつろいゆく日々は、ただ寂しいだけの空しいものではなく
なります。
  
 私たちが称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は、無量寿という大きないのちから届く確かな呼び声です。「最後」だと気づかぬままにいくつもの「最後」を通過していくこの儚(はかな)い日々を、阿弥陀さまの大きなお慈悲が、すべてを受け入れる海のように、まるごと抱きとめてくださっているのです。          南無阿弥陀仏

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